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2007年1月 1日 (月)

日本史の名場面(一)関ヶ原

 皆さま・明けましておめでとうございます。

 本年もよろしくお願い申し上げます。

                  平成19年1月1日  柳生すばる

 

 今日は元日なので少し普段とは趣を変え 

 「日本史の名場面 その一」

 と題し

 拙者の愛読書でもある司馬遼太郎氏の名作

 関ヶ原(新潮社・刊)

 から主に拾った日本人なら忘れてはならない名場面 Episode を紹介しようと思う。

 

 

 その一

 秀吉と三成との出会い

 豊臣秀吉が信長に仕えて初めて大名に封ぜられたのが近江長浜20万石であった。

 ある暑い夏の日のことである。

 鷹狩りでさんざん馬を責めた後だったので秀吉は喉がカラカラであった。

 近くの寺に立ち寄り・縁側に座り・茶を所望した。

 現れたのはこの寺の小僧であった。

 年のころは11~12であろうか?

 涼しい眼を持った利発そうな美少年である。

 「粗茶にござりまする」 

 と持ってきた大振りな茶碗には、なみなみと湯茶が満たされている。

 少し口をつけるとぬるい。

 喉が渇いている秀吉は一気に飲み干した!

 「さらに一服!」

 鷹狩りで火照った体は一先ず落ち着いたが、もう少し飲みたくなったのである。

 「しばらくお待ちを・・・」

 小僧は空の茶碗を受け取り奥に引き下がったが・やがて再度・茶碗を捧げて差し出した。

 最初の茶碗に半分ほどの湯茶が満たされている。

 湯はやや熱めである。

 秀吉はこれも飲み干す。

 そして

 「もう一服・・・」

 と所望する。

 寺の縁側の前に広がる鬱蒼たる緑と蝉時雨(せみしぐれ)の風情を楽しもうと思ったのである。

 青葉の向こうには野が広がり・琵琶湖が望める

 3度目に運ばれて来たのは小ぶりな茶碗であった。

 湯気の出具合からも舌の焼けるほど熱いのが分かる。

 秀吉はゆっくりと心を休めながら茶と風景を満喫した。

 「そちの名は何という?」

 感心した秀吉は尋ねると

 「御領内石田村に住みまする石田正継が子にて

 佐吉

 と申しまする」

 と小僧は答えた。

 「この小僧は(将来)使える!」

 (奇貨居くべし!)

 そう思った秀吉は寺の住職に頼み・佐吉を自分の城に小姓として貰い受けることにした。

 

 佐吉は後に

 石田治部少輔三成にと出世をし・豊臣政権の5奉行にも列せられる地位にまで登ることになる。

 これが秀吉と三成との最初の出会いであった。

 なお

 この寺は長浜城外の観音寺・または伊香郡古橋村の三珠院であるとも言う。

 

 

 その二

 三成との友情に殉じた大谷吉継

 秀吉の死後・天下を狙う徳川家康の野望を見破った石田三成は会津の上杉景勝と謀(はか)り・史上有名な「関ヶ原の戦い」に至るのだが、これはその少し前のエピソードである。

 上洛せず謀反の意志を示した景勝を討つべく家康は諸将を従え・大軍を持って会津遠征の途に着いた。

 この家康軍に合流すべく

 越前敦賀(つるが)の城主:大谷吉継(おおたに・よしつぐ)

 の軍も6月に城を発ち・7月2日・中仙道の美濃の垂井(たるい)の宿に宿営した。

 慶長5年(1600年)のことであった。

 吉継はすぐそこから35~36kmの近さにある近江佐和山の三成のところに使者を出した。三成の息子の隼人正(はやとのしょう)を迎えに行くためである。

 三成は家康の留守に討伐の挙兵をすることを欺くために

 「自分は蟄居の身にありますれば、代理にせがれの隼人正を下向させます。その世話は大谷刑部少輔が見てくれるでありましょう」

 と家康に約束していたからだ。

 使者の椿斎(ちんさい)が佐和山城に入り・三成に面会すると

 「大事な話があるゆえ刑部少輔(ぎょうぶのしょうゆう)にこの城に足を運んでもらいたい」

 と言う。

 三成の決意を察した吉継は輿を佐和山に向けた。吉継は病気のため馬には乗れなかったからである。

 着いたときには既に夜になっていたが丁重に三成は吉継を茶室に案内した。

 「挙兵する!」

 と三成は友に初めて家康追討の決意を打ち明けた。

 「よせ・無理だ!

 内府(家康)の力量は天下に並ぶものがない。お主の人徳では諸将はついては来ない。奴に到底太刀打ちできぬ!」

 しかし

 三成の決意は固かった。

 「紀之介(吉継の通称)・わしと共に起ってくれ!」

 吉継は

 「自滅する。必ず負けるぞ!」

 と必死に諫止したが、三成は聞き入れない。

 吉継は十数日・垂井の宿に留まり3度・友の説得を試みた。

 3度目の使者が空しく帰って来たとき吉継はため息をつきながら昔を思い出したのである。

 

 秀吉の在世に茶会があった。

 諸侯たちは癩病(今のハンセン氏病)に罹り皮膚も顔も崩れはじめている吉継と同席することを露骨に嫌がった。

 そのときも吉継から回された茶碗を諸侯たちは喫(の)むマネだけして次々に送って行く。

 茶碗が三成のところに来た。

 三成は茶碗を受け取り・それを一気に飲み干してしまった!

 「ああ、喉が渇いて死にそうだわい!」

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 このことを思い出しながら吉継は再び三成のところに戻った。

 そして

 「わしを友と見込んで家康討伐の大事を打ち明けてくれたことに応えねばなるまい。

 佐吉!

 お互いに目が見えぬ者同士じゃ。その誼(よしみ)で

 わしの命おぬしに呉れてやるわ!

 確(しか)と

 受け取れい

 と宣(のたま)うた。

 そして側近の平塚孫九郎に

 「そこもとの寿命もどうやら今年限りと決まったぞ」

 とポツリと言う。

 「望むところでございます。

 家康を討つ義戦とあれば、爽やかな死に花を咲かせましょう!」

 と老臣の孫九郎が嬉々として応じる。

 

 かくて大谷吉継は日本史上に有名な”関が原の戦い”で

 5,600の兵を率いて大いに善戦・奮闘したが

 衆寡敵せず・小早川秀秋の裏切りをまともに受け・遂に壮絶な自刃(じじん)を遂げるのである!

 

 

 その三

 島津義弘・敵陣突破の壮烈なる退却!

 慶長5年(1600年)9月15日に行われた関ヶ原の戦い

 東軍(徳川家康)7万5000

 西軍(石田三成)8万余

 の大軍が激突した日本史上最大の合戦である!

 午前8時に始まった戦いは一進一退ながら・やや西軍有利のまま運んでいたが、

 正午過ぎ・小早川秀秋の裏切りによって形勢は逆転する!

 大谷吉継は果敢に応戦するが、脇坂・朽木・小川・赤座の第二の裏切りに遭い総崩れとなる!

 三成の家老:島左近も討ち死にし、午後3時近くには西軍の敗北は疑いようがなかった!

 もはや戦場に残された西軍は

 関ヶ原の西北に布陣した島津義弘の軍勢を残すのみ!

 しかも1500の軍勢もわずか300に減っていた。

 前の3方からはヒタヒタと東軍が押し寄せて来る。

 しかも背後は伊吹山の天嶮が退却を拒む。

 過ぐる朝鮮の役には明軍20万を相手にわずか1万の兵でこれを蹴散らし、3万8,000の首級を挙げ”鬼石曼子”と呼ばれた義弘だが、67歳の体躯でこれを挽回する術はもはや無い!

 しかし

 勇猛をもってなる島津兵である。怯むことは無かった!

 大将:義弘と甥である副将:島津豊久の意見は一致した。

 義弘は全軍に号令する!

 「伊勢路に向けて退却する!

 ただし

 敵陣・前に向かっての脱出じゃ!

 前代未聞の島津軍:敵中突破の大脱出がここに敢行される!

 東軍の福島正則は島津軍の勇猛さを知っているので、本気で攻撃しない。馬印を捨て・決死の覚悟の島津軍は簡単にこれを突破する。

 次はこれに徳川4天王である井伊直政3600・本多忠勝500の兵が襲いかかる!

 義弘の軍は鋒矢形(ほうしがた)の突撃隊形で激闘の後にこれを突破し脱出した!

 その間に兵は次々に討たれ・徐々に減少するが、退却の速度も志気も衰えることはない!

 しかも

 あろうことか・家康の本陣3万の前を馬蹄の響きも高らかに通過したのである!

 空も義弘に味方したのか?関ヶ原には豪雨が立ち込める。

 ついに義弘軍は関ヶ原の東南の端にある・伊勢街道の烏頭坂(うとうざか・関ヶ原I.C.近く)に至るが、兵も疲労の極に達し”もはやこれまで”と思われた。

  薙(な)げど仆(たお)せど敵兵の 重なり来る烏頭坂

   たばくる矢玉音凄く 危機は刻々迫るなり

 ここに至り副将:島津豊久は義弘の猩々緋(しょうじょうひ)の陣羽織をまとい、13騎の武者を従えて敵陣に突っ込み・壮烈な戦死を遂げる。

 家老の阿多盛淳(あた・もりあつ)も”丸に十字の旗”をひるがえして

 「われこそは島津惟新入道なり!」

 と井伊直政の軍勢の中に飛び込み・無数の銃弾に射抜かれて絶命した。

 これらの家来達の奮闘は

 「我が大将の首級を敵に委(まか)すべからず!

 この仇・報ずるあたわざる時は、一隊ことごとく討ち死にせよ!」

 という島津氏には語り継がれた定めがあったからである。

 かくて午後4時。

 家康が”戦闘の終止を命ずる”法螺貝の音が聞こえるころには東軍の追撃も緩み

 松尾山の裏の多羅というところに義弘はたどり着く。

 最初・勇猛をもってなる1500の兵もわずか80にまで減っていたと言う。

 それから伊賀・奈良・大坂から堺に至り・海路日向に向かい、義弘はようやく故国:鹿児島に帰ることが出来た。

  興亡すべて夢なれど 敵に背(そびら)を見せざりし

   壮烈無比の薩摩武士 誉は永久(とわ)に匂うなり

 

 天下の覇権を握った家康は東軍の諸将に論功行賞を与え・捕らえた三成・安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)らを斬首にした。

 戦いに参加しなかった上杉景勝も120万石から30万石に・西軍の総大将に祭り上げられたが大坂城を動かなかった毛利輝元は120万石から36万石に減封された。

 しかし

 島津義弘は

 すばやく隠居したり・和平交渉が功を奏して

 鹿児島58万7000石は安堵(あんど)されたのである。

 下手に討伐軍を差し向ければ、関ヶ原以上の痛手を蒙るのは家康も分かっていたからである。

                                  以上

 

 

 桜散り・夏草も枯れ・木枯らしが吹き・こぞの雪今は何処に降りけん

 時代はめぐり

 少年は老い人は果てし無き旅路に赴く

 戦場を駆け抜けた武者達の雄姿も

 軍馬のいななき・蹄の轟きも既に一陣の風の中に消えゆる

 ただ

 悠久に瞬く星々が見つめるのみ

 

 夜空に輝く数多の星々よ!

 汝(なれ)も励みて彼らに連ならん。

 我は行く・夢を追い続けて・・・

 

 では

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コメント

 TOM(薩摩製)さま。
 明けましておめでとうございます。
 義弘公の脱出路の途中には柳生の里も近いですから私も1度訪れたいものですね。
 奈良・京都にはよくドライブ旅行に行くのですが、つい関ヶ原は通過してしまいます。
 島津義弘公は波乱万丈の生涯ですからNHKの大河ドラマにでも取り上げたら更に面白いと思います。

 鮎川さま。
 昔から大変お世話になっております。

 あ、でもあまり深く考えないで下さいね(笑)。

投稿: 柳生すばる | 2007年1月 4日 (木) 01:18

明けましておめでとうございます。
薩摩のネタ、どうもありがとうございます。
小学生の先生もこの話をしてくれたので、去年の11月関ヶ原に行って島津陣地跡から豊久公の石碑まで歩いてきました。
道案内を頼んだ老人の話だと、最近私だけでなく同じような事をした鹿児島の人が何人かいたとか。
同じような先生がいたんでしょうね。歴史をしっかり語り継ぐ事は大事だと確信した次第。

投稿: TOM(薩摩製) | 2007年1月 3日 (水) 22:07

明けましておめでとうございます

お正月から泣かせるエントリですね
私は特に大谷吉継のエピソードが好きです

ああすればこうなることと知りながら
やむにやまれぬ大和魂

日本男子の心意気ですね。

本年も宜しくお願い致します

投稿: 鮎川龍人 | 2007年1月 2日 (火) 18:02

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