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2008年1月 2日 (水)

零戦風雲録・坂井三郎空戦記

 藤原正彦さんの「国家の品格」が260万部のベストセラーとなり・「・・・品格」というネーミングで二匹目のドジョウを狙うのが昨今の出版界では流行していますが

 今から50年以上も前に日本人が書いた本が全世界16ヵ国で450万部ものベストセラーになったことがあったのです!

 その本の名は

 「坂井三郎空戦記録」

 (後に大空のサムライ光人社・刊と改題)

 でも

 取り合えずクリックしてね!(笑)

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[~新しい風を求めて~NET連合]

 

 これは

 愛機・零戦(れいせん)を駆って200回以上も出撃し

 敵機64機を撃墜した帝国海軍のエース(撃墜王):坂井三郎氏の書いたものです。

 日米が戦ったほとぼりも覚めやらぬ・この時期に敵国であったはずの欧米からかくも賞賛の声が上がったのは(英語タイトル”SAMURAI! ”)

 坂井氏の座右の銘である「不撓不屈」(困難の中でも決して諦めないこと)の精神はさることながら

 戦争の中で苦悩しながらも祖国への大義を果たそうとする若者の真摯な姿が描かれていたからでした。

 

 彼の空戦記を語る前に

 ここで零戦のことを簡単に述べて置きましょう。

 今でこそ戦前の帝国海軍の傑作機として最大の栄誉を与えられている零戦でありますが

 その開発のきっかけは昭和12年

 新鋭空母「翔鶴」と「瑞鶴」の艦載機に画期的新鋭機を求められたからでした。

 当時の海軍の要求内容

 ① それまでの戦闘機の2倍の航続距離 3000km以上

 ② 現行の96式艦戦の最高速力450kmを上回る500km以上

 ③ 96艦戦以上の空戦(旋回)能力。96艦戦の7.7mm機銃より強力な20mm機銃の搭載。

 

 この「ないものねだり」とも言える無謀な要求に応えたのが

 三菱(現・三菱重工業)の主任設計技師:堀越二郎氏であったのです!

 ただし・そのために

 防御が薄くなってしまったのは仕方がありませんでした。

 昭和15年(1940年)7月零戦は正式機として採用され

 その年が「皇紀2600年」であったことから・末尾の”0”を取って

 零式艦上戦闘機(略して零戦 Zero Fighter

 と命名されました。

 

 デビュー戦は同年9月13日

 重慶上空で(蒋介石の)中国空軍27機と零戦13機が交戦し

 零戦が損失無しの中国空軍機を全機撃墜の圧倒的勝利

 でした!

 このときの零戦は11型。生産機数はわずか64機。

 1番有名なのは零戦52型。これは6000機を生産(零戦の全生産機数は約1万機と少し)。

 

 大東亜戦争が勃発し(1941年)

 翌昭和17年(1942年)3月には空母「赤城」を旗艦とする・わが機動部隊はインド洋を目指しました。

 コロンボ(スリランカ最大の都市)上空での闘いでは

 英陸軍の「スピットファイアー」と「ハリケーン」合計42機と

 わが帝国海軍「瑞鶴」「翔鶴」「蒼竜」「飛竜」の艦載機36機が激突し

 損害 19(英軍) vs. 1(日本軍)

 の大勝利を収めました!

 イギリス本土上空の闘い Battle of Britain では

 「英軍のスピットファイアーと独軍のメッサーシュミットは互角」

 と言われていましたから

 この当時の零戦は

 文句なく世界一(強い戦闘機)

 と言っても良かったでしょう。

 

 しかし

 大戦初期・圧倒的強さを誇った零戦も

 空戦性能(巴戦 Dog fight)を重視したがゆえに1000馬力に留まり

 大戦後半では米軍の2000馬力級の

 「F6Fヘルキャット」「F4Uコルセア」に押されて行きます。

 堀越二郎技師は

 烈風を大戦末期に開発しますが

 「時既に遅し・・・」

 でした。

 

 後にその零戦の名パイロットと謳われる坂井三郎

 大正5年(1916年)8月26日・佐賀県の西与賀村(現在は佐賀市)に生まれました。

 子どものころから腕白坊主であったようですが

 家はかなり貧乏でした。

 やがて「海軍少年航空兵」に応募しますが残念ながら失敗します。

 そこで昭和8年(1933年)・海軍に志願して

 戦艦:霧島に砲兵として勤務し

 さらに横須賀の砲術学校で学び・200人中2番の好成績で卒業し

 戦艦:榛名に配属されました。

 しかし

 大空への夢を忘れられなかった坂井は

 昭和11年(1936年)「霞ヶ浦航空隊」の操縦練習生に何とかパスしました!

 複葉機90式練習戦闘機で猛訓練を受けた坂井は

 同期生25名の首席となり・恩賜の銀時計を拝受します。

 やがて大分県・佐伯航空隊→大村航空隊→台湾・高雄航空隊

 に配属されます。

 前年には日中戦争が始まっている昭和13年(1938年)初夏のことでした。

 

 同年9月には

 九江の第十二航空隊に転属し中国大陸に渡ります。

 蒋介石の国民政府軍は前年に首都・南京を陥落させられていたので

 漢口に拠点を移していました。

 中国軍は卑怯にも

 飛行機はもとより・パイロットまで欧米の助っ人を多数使って戦っていました。

 (フライングタイガースなどが有名)

 

 坂井三郎は

 96式艦戦で陸軍を支援する上空哨戒に従事し・ついに

 ソ連製の「イ-16戦闘機」と対戦しました!

 坂井は無我夢中でしたが・何とか1機を撃墜します。

 やがて

 第十二航空隊も漢口に進出し

 坂井も血みどろの戦闘を経験することになります。

 そして昭和15年

 坂井は高雄航空隊に戻ることになり・愛機はここで零戦に変わります。

 昭和16年

 蒋介石軍は重慶を捨て・さらに奥地の成都に後退し

 高雄航空隊も春に海南島へ・5月には漢口へと移動します。

 

 坂井は8月11日

 零戦16機・一式陸攻多数と共に払暁・成都を攻撃!

 坂井は零戦にて初めて敵機撃墜(イ-15戦闘機)を果たします。

 しかし

 味方機とはぐれてしまい・揚子江を超低空で飛び

 やっとのことで宜昌飛行場に帰り着きます。

 1941年(昭和16年)12月8日

 真珠湾攻撃が行われ

 坂井もフィリピンのクラーク基地を攻撃し・着陸していた「空の要塞:B-17爆撃機」を20mm機銃で炎上させます!空中戦でも「カーチスP-40」を1機・撃墜します!

 10日には

 上空でB-17に遭遇し・日本人パイロットとして初めてこれを撃墜!

 

 しかし

 緒戦の勝利はつかの間・ミッドウエー海戦の敗北から

 太平洋の帰趨は米海軍に傾く昭和17年(1942年)8月7日

 米軍はガダルカナル島に上陸を開始します!

 台湾の台南航空隊に属し・ラバウルから零戦17機と陸上攻撃機27機と共に1000kmを飛び・ ガ島上空に達した坂井

 グラマンF4F戦闘機とダグラスSBDドーントレス急降下爆撃機を撃墜!

 しかし

 8機編隊のSBDを戦闘機と見誤って後方に付き

 爆撃機の旋回機銃の猛射を浴びてしまいます!

 (戦闘機の機銃は前向きのみだが・爆撃機には旋回する機銃がある)

 瀕死の重傷を負った坂井だが

 不屈の闘志でラバウルまでの1000kmを1機のみで引き返します!

 しかも

 途中・味方の巡洋艦2隻と遭遇するが

 「重大な任務を帯びて航行中の艦艇に迷惑は掛けられない・・・」

 と側に着水するのを断念するのです。

 さらに

 燃料残量ゼロとなるギリギリで奇跡的にラバウル基地に帰還し

 負傷を心配する仲間を振り切って

 指揮官室で報告して職責を果たしたのでした。

 ここのところが

 外国人にも感動を呼ぶ1番の理由らしい。

 

 そして

 坂井の「大空のサムライ」が長く読まれるのは彼の武勇伝ばかりではないのです。

 坂井は

 海軍での「士官と下士官の食事の待遇の差」に憤って

 搭乗員用の拳銃で(食料の入っている)冷蔵庫に1発・ぶっ放したことがあります!

 当然・厳罰になるところですが

 理解のある副長は許したばかりでなく・食事の改善を約束したそうです。

 

 また彼の伝説的エピソードとして

 「昼間でも星を見分けられた

 という目の良さがあります。

 常日頃から「トンボやハエを敵機と思って掴んだり・青空の1点を凝視して」視力を鍛錬していたのです。

 これは

 「空戦に勝つには

 敵パイロットよりも早く敵機を発見し・常に有利な位置から先制攻撃を仕掛ける

 に尽きる!」

 からです。

 そして・これらの

 100~150ヶ条にもなるという「空中戦の要諦」を先任搭乗員としての責任感から部下に親切に教えていたと言います。

 例えば・空中戦の初心者には

 「敵の後ろに立ち・機銃を発射するときには

 ”後ろを”見よ!」

 と言ったそうです。

 1つのことだけに夢中になっていると命取りになるからです。

 その反対に・ある程度のベテランには

 「全力を出すな!」

 と教えました。

 これは

 「長丁場の戦いの場ではスタミナが切れてしまう」

 からです。

 「力を入れたり・抜いたりの配分がスムーズに出来るようになって」

 こそベテランの域に達したと言えるのです。

 これらの現代にも通じる

 合理的な精神に貫かれているからこそ

 坂井氏の「大空のサムライ」が世界でも評価されているのでしょう。

 名機・零戦とともに・・・

 

 昭和43年頃・ミズーリ州の大学で英文学を教えていた

 渡部昇一氏は・当地のスーパーマーケットで英語版のこの本を見つけて読み感動したと言います。

 渡部氏は以下のように言っています。

 「坂井三郎氏は

 宮本武蔵の克己心と努力で自らを鍛え続けて来たのだろう。

 坂井氏のようなサムライが

 戦国時代ではなく・つい今しがたまで居られたことは

 われわれにとって誇りであるばかりでなく

 彼らの活躍を手本とし・努力し・そして不撓不屈の精神とともに日本人は決して忘れてはならない!」

 

 では

 名機零戦名パイロット坂井三郎そしてクリックも忘れない!

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 なお今回の記事は

 歴史街道1月号(PHP研究所)

 日本の敗因(小室直樹著・講談社)

 3DCG零式艦上戦闘機(双葉社)

 をテキストにしました。

 また「新年Special」としましては

 2007年1月1日

 日本史の名場面(1)関ヶ原

 がありますので・お時間がありましたら是非ご覧になって下さい。

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コメント

いつも・・・さま
 明けましておめでとう御座います。
 ありがとうございます。
 これからもよろしくお願いいたします。
 零戦や飛燕などは
 日本人の美観も反映されていて・本当に傑作機でした。

投稿: 柳生すばる | 2008年1月 4日 (金) 00:35

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

>新鋭空母「翔鶴」と「瑞鶴」の艦載機に画期的新鋭機を求められたからでした。

子供のころ零戦関連の本を大量に読みましたがこの件は知りませんでした。
オーストラリアのポートダーウイン上空でもスピットファイアと対戦して完全試合を達成した零戦は日本の至宝ですね。

投稿: いつも読ませていただいておりますよ | 2008年1月 3日 (木) 16:45

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