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2008年1月 3日 (木)

壮士一度去ってまた帰らず!刺客列伝・荊軻

 元日の産経新聞【正論】には都留文科大学教授の新保祐司氏の

 【産経新聞1月1日正論】「明治の精神」に立ちかえろう

 という一文が載っています。

 これは

 「日本人は”美を好む”民族だが

 明治維新の志士たちのように・稀に”日本人離れした” 

 義を貫く人間

 が現れる」

 ということです。

 でも

 皆さんはクリックすることを好んでくださいね!(笑)

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 日本人は「和の民族」とか「(文化の中に)美を追求する民族」

 と言われますが

 中国人は

 「義の(文化を持つ)民族」

 と言えましょう。

 それは「義侠」とか「侠気」にも通じ

 三国志の「桃園の誓い」や「三顧の礼」にも現れています。

 

 さて

 中国の歴史書の古典と言えば

 史記」:前漢の司馬遷の著。紀元前91年頃完成。

 十八史略」:宋末・元初の曾先之の編。史記以下の17史に宋代の1史を加えたもの。

 ・・・でありましょうが

 そのジャンルの中に

 「刺客(しかく・暗殺者)列伝」

 というものがあります。

 ”刺客”と言っても

 小泉チルドレン

 のことではありません!(笑)

 

 その刺客の中でも

 秦の始皇帝の暗殺を謀った荊軻(けいか)は

 毛沢東には非難されましたが

 未だに中国人の間では絶大な人気があります。

 その勇気・仁に厚く・義に殉じたその生涯は

 あまりにも有名な「易水(送別)の歌」とともに

 1番愛されている中国人

 と言っても過言ではないでしょう。

 彼の逸話は「史記」「十八史略」両方に記されていますが

 今回は「史記」を中心に日本の皆さんにもご紹介しようと思います。

 ”義”というものが

 いくらかはお分かりいただけると思いますので・・・

 

 紀元前240年頃・衛の国に荊軻(けいか)という男がいました。

 彼は遊説術と剣技を修めましたが

 議論しているうちに相手に睨みつけられると黙って立ち去ったり

 博打で口論となり大声を張り上げられると・その場を逃げ去るような

 大人しい男でした。

 

 荊軻は燕(えん)の国(現在の北京を中心とする河北省北部)に移ると

 犬殺しで筑(ちく・弦楽器の一種)の名手:高漸離(こうぜんり)らと親交を深め

 酒場で筑に合わせて歌ったり・感極まって抱擁して泣いたりしていました。

 しかし元来

 思慮深く・読書が好きな男だったので

 在野の賢者として高名な田光(でんこう)先生

 にも認められて親しく交わっていました。

 

 それから・しばらくしてのことです。

 燕の太子・丹(たん)が人質となっていた秦から逃げ帰って来ました!

 彼は”幼なじみ”の政(後の始皇帝)が秦の王位に着いた途端

 丹を”秦の人質”として冷遇したのを恨んで逃げ出したのです。

 帰国した丹は

 秦王に報復してくれる者を探しましたが

 あいにく小国の燕には人材が見当たりません。

 

 秦は日ごとにその勢力を拡大し

 斉・楚・三晋(韓・魏・趙)を攻撃し・燕の国境にも迫って来ました!

 事態を憂慮した侍従の鞠武(きくぶ)は

 「秦は広大な領土を持ち・人口も多い強国でございます。

 兵卒も強く・武器も充分です。

 ”恨みを晴らす”などと

 秦王の怒りを買うことなどすべき事態ではございません!」

 と言上しました。

 丹は悩みましたが

 さらにそれに輪をかけるような事態が起こります。

 秦の将軍:樊於期(はんおき)が無実の罪を着せられて燕に亡命して来たのです!

 太子丹は彼を受け入れて宿舎まで与えました。

 鞠武は慌てて

 「それはなりません!

 餓えた虎の前に肉をあてがうようなものです!

 暴虐な秦王に燕攻撃の口実を与えることになります。

 むしろ

 三晋と盟約を結び、斉・楚と連合し北の匈奴と講和する策をお奨めいたします」

 と丹を諌めました。

 

 丹はこれに答えて

 「そちの計略は時間がかかり過ぎる。

 それに

 樊将軍は私を頼って燕にやってきたのだ。

 ”窮鳥懐に入らば・猟師もこれを殺さず

 と言うではないか?

 他の策はないのか?」

 と逆に鞠武に問われました。

 鞠武は

 「あなたさまは

 危険を招きながら・安全を求め

 禍(わざわい)の種をまきながら・幸福を願う。

 破綻するのは必定です。

 もはや私には良策は思いつきませんが

 あえてと仰るなら

 在野の者ではございますが

 思慮深く勇敢と評判の高い田光先生という方に相談されてはいかがでしょうか?」

 

 かくて侍従の鞠武は田光先生を訪ねることになります。

 鞠武を迎えた田光先生は

 即座にこれを受け入れて・太子丹を訪ねます。

 丹も丁重に奥に通し・人払いをしました。

 丹は座を降りて

 「燕と秦は両立しません。

 どうか先生のお考えをお聞かせください」

 と言いました。

 田光先生は答えて

 「駿馬は最盛期には日に千里を走ると言いますが

 老いては駑馬にも劣ります。

 しかし国事ゆえ

 荊軻という男をご紹介申し上げましょう」

 と言いました。

 そして田光先生は自ら荊軻の許に赴き

 「太子から

 『燕を秦から救ってくれ!』

 と頼まれたが

 わしも老いた。

 そこで・あなたを推薦しておいた。

 どうか太子丹に会ってはくれまいか?」

 と頼んだのでした。

 荊軻も

 「承知いたしました」

 と答えます。

 しかし田光先生は次のように続けたのです!

 「太子からは

 『国の大事に関わるゆえ他言無用!』

 と言われた。

 これは疑われたのだ。

 人に疑われるようではもはや義士とは言えぬ。

 太子に会ったら

 どうか伝えてくれ!

 田光は既に亡く・秘密は守られました・・・と」

 と言う間もあらば

 傍らの剣を抜き・両手で刀身を支え・その上に自分の首を載せ

 そのまま前にのめって自刎(自害)しました!

 荊軻は

 嗚咽を堪えつつ羽声で歌を静かに謡うのでした。

 

 荊軻は・かくして太子丹にまみえ

 田光先生の自害と先生の言葉を伝えると

 丹も荊軻に取りすがって落涙しました。

 「田先生に他言なさらぬようにとお願いしたのは

 国の大事を成功させようとのことでしたが

 まさか、死を以って秘密を守られようとは存じませんでした・・・」

 

 丹は席を下がり・平伏して

 「田先生がわざわざあなたに会わせていただく機会を作って下されたのでしょう。

 これは天が燕を哀れみ・いまだ見捨てないしるしかも知れません。

 ご存知のように

 秦は韓王を捕虜にし・楚を攻め・趙に迫っております!

 趙が陥落すれば弱小国のわが燕に襲いかかりましょう」

 と荊軻に伝え

 「この秦の惨禍から燕を救うにはもはや

 たくさんの貢物を持った使者を送り・油断させて

 隙を見て刺し殺す以外に策はありません!

 これが出来る人物は

 あなた以外には見当たりません!

 どうかお引き受け願えませんでしょうか!?」

 と続けるのでした。

 しばらく考え・一度は断った荊軻ですが

 「是非に!」と丹に頼まれ・ついに引き受けたのでした!

 

 荊軻は上卿(じょうけい)の位を授けられ

 豪邸と山海の珍味の豪華な食膳や美女・車馬なども与えられました。

 

 しかし

 秦が趙を征服し・燕の南境に迫ると

 ついに荊軻が腰を上げました!

 「いよいよ時節到来のようです。

 しかし

 信頼されなければ・秦王に近づくことはできません!

 そこでその策ですが

 秦王は

 あの樊将軍の首に黄金千斤と邑万戸の懸賞をかけています。

 これに沃土である督亢(とくこう)の地図を添えて献上すれば拝謁を許可するでしょう。

 そうなれば・グサリと胸を・・・」

 しかし丹は

 「いや・ならぬ!

 それだけはならぬ!」

 と慌てました。

 そこで荊軻は一旦・その場を辞するのです。

 

 ところが荊軻がその足で向かったのは

 樊将軍のところでした!

 「秦王へのあなたの憎しみはどの程度のものですか?」

 樊将軍はこれに答えて

 「秦王はわが一族を皆殺しにしたうえ

 この首に黄金一千斤と万戸の食邑を懸けているのです。

 その深さは口では申し上げられないほどです」

 と涙ながらに言うので荊軻は

 彼の秦王暗殺の計画を打ち明けます!

 将軍は最初は驚きましたが

 みるみるその顔に喜びの表情が浮かんで来ました!

 「おぉ・このわが首を献ずれば秦王といえども喜んで会うでしょう!

 いや荊軻どの、よくも思いついてくださった!

 ありがとう・ありがとう。

 これで恨みを晴らすことが出来る!

 死んでも本望です!

 ありがとう・・・・・」

 と言うかと樊将軍は自ら剣を取り・田先生と同じく自刎したのです!

 太子丹も

 これを聞き・急ぎ将軍の住居に行き・屍体の上にかぶさって慟哭したと言います。

 

 かくて用意万端整って出発する荊軻は

 彼の信任厚い薄索(はくさく)を副使として連れて行きたかったのですが

 遠くの楚からやって来るのを待つうち

 丹に急かされて若い秦舞陽(しんぶよう)を伴うことになってしまったのです。

 

 易水の辺(ほとり)で送別会が催されました。

 太子丹も犬殺しの宋意も参列者は皆「白装束」です。

 万に一つも生還の望みはなからです。

 荊軻は親友で筑の名手の高漸離に合わせて

 「風は蕭々(しょうしょう)として易水寒し

 壮士 一度(ひとたび)去って復(ま)た還らず」

 風蕭蕭兮易水寒

 壯士一去兮不復還

 と謡い・激烈な羽(う)の声調で歌いました。

 聞く者の目からはとめどなく涙があふれ

 荊軻は車に乗り・その場を去りましたが

 二度と振り返らなかったと言います。

 

 秦の都に到着した荊軻は

 早速・中庶子(宮内官)の蒙嘉(もうか)という寵臣に進物を贈り・首尾よく秦王への拝謁を取り付けます!

 秦王は喜んで咸陽(かんよう)宮に引見します。

 荊軻は樊於期将軍の首を入れた桶を持ち・秦舞陽が地図の箱を持って従ったのですが

 ふと見ると秦舞陽は緊張のあまり蒼ざめて震えているのです!

 荊軻は一瞬・怯みましたが

 「どれ・持って参った地図を見せよ」

 との秦王の言葉に我に返り・ゆっくりと地図を広げます。

 そして開ききった最後に

 キラリと光る匕首(あいくち・短刀)が現れたのです!

 とっさに荊軻は

 左手で秦王の袖を掴み・右手に匕首を握って突きかかります!

 その刹那・秦王は後ろに飛びのき

 袖が千切れます!

 王は自分の剣を抜こうとしますが・剣が長すぎてなかなか抜けません!

 荊軻がさらに秦王に襲い掛かります!

 秦王も柱を回って逃げます!

 周りの群臣は「殿上では武器を携帯できない規則」なのでうろたえるばかり!

 侍医の夏無且(かむしょ)が薬嚢を荊軻に投げつけ・一瞬荊軻の目が眩む!

 「王!剣を背に!」

 との側近の言葉にようやく秦王は刀身を引き抜き・荊軻に斬りつける!

 左股を斬られた荊軻が倒れます。

 そして最後の力を振り絞って

 匕首を秦王に投げつけます!

 しかし

 無念にも柱に当たって床に匕首が転がる。

 秦王はなおも荊軻に剣を振るい・数ヶ所に重傷を負った荊軻は

 もはやこれまでと柱にもたれて両足を投げ出し

 「仕損じたか!?

 生かしてその口から太子へ詫びを言わせようとしたので不覚を取った!」

 と秦王に罵声を浴びせます。

 警護の兵士がようやく駆けつけ・荊軻に止めを刺しました・・・

 

 かくして

 乾坤一擲を狙った刺客:荊軻の壮途は空しく消えたのでした。

 その勇名と「易水(送別)の歌」を残して・・・

 怒りを爆発させた秦は燕に攻め入り・これを亡ぼし

 太子丹はなおも東の遼東に立てこもりますが

 5年後・これも力尽き燕は完全に秦に滅亡させられます。

 紀元前222年のことでした。

 

 日本でも

 明治時代に自由民権思想を唱え歩いた者や血気にはやる男子を

 壮士と言います。

 日本も長く中国からの文化を多く受け入れて来ましたから

 今回の荊軻の故事が頭の中に在ったのかも知れません。

 

 己の利害を捨てて

 天の条理に従い・人道や公共のために尽くすこと

 これを”義”と言います。

 中国の戦国末期に生きた荊軻も

 義のために命を懸けた壮士

 として中国のみならず日本でも長く讃えられるのではないでしょうか。

 これは

 赤穂浪士や神風特攻隊を生んだわれわれ日本人にも

 十分理解できることであるはずですから。

 そして・この伝統は

 2・26事件の青年将校や血盟団事件の壮士たち

 戦後の山口二矢(やまぐち・おとや)

 にもつながっています。

 (一人一殺!)

 お分かりですね?

 

 でも

 匕首で刺のではなく指でクリックしてくださいね! 

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 なお今回は

 司馬遷「史記・Ⅱ」乱世の群像(徳間書店)

 小説:十八史略・上(陳舜臣・毎日新聞社)

 始皇帝と暗殺者(天堂晋助・河出書房新社)

 をテキストとして使用いたしました。

「外国人参政権反対」 のビラまき   

外国人参政権に反対する会・関西 特別顧問 村田春樹緊急講演会
◇ なぜ『外国人参政権』に反対しないといけないのか ◇
日 時 平成20年1月6日(日)午後3時~5時
    ≪『一日会(午後1時~)』1月月例勉強会講師としてご講演≫
会 場 高津ガーデン(大阪市天王寺区)
○ 会場予約名 「一日会」
○ 会場費   1000円ご協力ください


「外国人参政権反対」 のビラまき、街頭宣伝
日 時 同日午後5時30分~6時半頃まで

場 所    JR鶴橋駅前
(在日のメッカ大阪市生野区)
※ 講演会終了後ワゴン車で移動、または直接お越しください。
協力;主権回復を目指す会、一日会、MASUKI情報デスク (090-3710-48159)

以上”よーめん”さんの記事から引用

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コメント

kuniさま
 麻生さんは昨年末・私の住んでいる市に来ましたが、人の心を掴むのがうまいですね。
 やはりアウディに乗って来ました(笑)。
 塩野七生さんの著書は本当にためになります。
 一神教より柔軟な考え方が出来るのが多神教の良いところだと思います。

投稿: 柳生昴 | 2008年1月 5日 (土) 17:00

中国は世界の中心と自負するだけあって、
様々な人々を生んでいますね。
でも、麻生さんの、日本は1500年に渡って
中国と仲良くなったことはないは笑ってしまいました。
こうした歴史認識が大切で、仲良くなくても
共生はできる。
最近、塩野七世のローマ人の物語に凝っています。
ローマ人の心根って日本人によく似ていますね。
多神教で世界に文化を発信できた民族は
ローマと、日本だけだと思えます。

投稿: kuni | 2008年1月 5日 (土) 10:26

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